スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)

レジュメ作成:海老原豊

*日本語版への序文

*1章 空疎な身ぶりと遂行文 CIAの陰謀に立ち向かうラカン

☆ 重要概念
大文字の他者(とその起源)
・空しい身ぶり
象徴界は超越的な先験的存在(アプリオリ)ではない
・象徴的相互作用の宣言的次元

☆ 象徴的空間の規則
大文字の他者を単純化しないように

・3つの規則(27)
1 部分的に反省することができる(文法)
2 知らないうちに従っている(無意識)
3 規則と意味を知っているが、他人に知られてはならない(コミュニケーションの事実そのもの、手押し車)

大文字の他者の二面性(27)
実体・人格化・具象化・しっかりとした力⇔実体がない・脆弱・本質的に仮想存在

「<大文字の他者>が仮想的だということは、象徴的秩序が個人から独立して存在する何か霊的な実体などではなく、個人の持続的な活動によって支えられている何かだということである。」(30)

大文字の他者は超越的ではない
「これで明らかになったように、ラカンは、人間の知覚と相互作用を支配する<象徴界>を、一種の超越的な先験的存在(アプリオリ=あらかじめ与えられた、人間の実践の範囲を限定する形式的ネットワーク)として見なしているのではまったくない。彼が関心を寄せているのは、象徴化の身ぶりが集合的実践の過程といかに深く絡み合っているかということである。」(35-36)

大文字の他者の起源
「しかし、<大文字の他者>の起源はいまだに不明である。個人と個人が象徴を交換するとき、二人は一対一でやりとりしているだけではなく、つねに仮想的な<大文字の他者>に言及している。」(30)

・贈り物のやりとり 贈与の瞬間に樹立する関係 ⇒ 柄谷行人「絶望的な飛躍」

☆ 発話の宣言的次元(コミュニケーションのモノ性)
「人間のコミュニケーションを特徴づけているのは、それ以上還元不可能な再帰性であり、すべてのコミュニケーション行為は同時にコミュニケーションの事実を象徴化している。」(32)
コミュニケーションはコミュニケーションであるとともにコミュニケーションについてのコミュニケーションでもある(象徴化→記号として脱/文脈化されうる)

・空しい身ぶり
拒否されることになっている身ぶり(申し出) 伝達される意味内容はない 伝達そのものが伝達される

・社会病質者ソシオパス 言語を伝達の道具としてしかとらえない
・選択はすべてメタ選択
・象徴的機能は主体において二重の運動としてたちあらわれる
「すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているのかをも伝達するのである。どんなに現実的な対象や行動も、つねにそうした宣言的次元を含んでおり、それが日常生活のイデオロギーを構成している。」(37)
「実行性はつねに、意味としての実行性の主張を含んでいる。」(37)

・ファロス(後述)
「人間の発話に本来そなわっている、言表された内容と言表行為との間の、還元不可能な落差である。」(41)
つまらない同僚の話・アメリカの拷問・「ゲルニカ」・CIA・手押し車・??便器の話(こ、これはっ!?)

*2章 相互受動的な主体 マニ車を回すラカン

☆ 重要概念
・象徴的秩序
大文字の他者
・知っていると想定される主体
・ファロス
・欲望

(各章タイトルはおそらく翻訳者がつけたものと思われるが、いずれのものも微妙に論点がずれているような気がするのだがどうだろう? 本章は「相互受動的な主体」というタイトル。たしかに相互受動性について前半では熱心に論じていて、かつかなり刺激的な話もでてくるのだが、しかしなによりその相互受動性を確実なものにしているのは、背後にある象徴的秩序であるはず)

☆ 前半(48-55)

・相互能動性 いわゆる双方向メディアなど
・相互受動性 

(inter-を「相互」と訳すことは問題があるのでは? 間-能動性、間-受動性のほうが近い気もしないでもない。それぞれ主体が存在し、その間を結ぶものの関係を指しているからだ。"inter-nation-al"とは「いろいろな国家が存在している、その国家の間を線でつなぐ」という意味であるはず。いろいろな主体が存在していて、それら主体が能動/受動に切り替わり主体同士の間で関係が取り結ばれる。このときのありようとして間-能動性、間-受動性がある)

1) 一般的な間-主観性

+対象(作品=作者)
 ↓
−主体(読者)

2) 相互能動性

+対象
 ↓↑
+主体

3) 相互受動性

−対象←(+大文字の他者
 ↓
−主体

・おっと!
「「おっと!」の機能は私の失態の象徴的登録(記号化)を実行することであり、私の失態を仮想的な<大文字の他者>に知らせることである。」(52)

・相互受動性は偽りの行動に似ている
「人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するためんい、つまり何一つ変わらないようにするために、行動することもある。」(53)

・相互受動性と偽りの行動
完全に受動である(誰かが代わりに決めてくれる)ことで、能動的になる
「我々は<大文字の他者>の不変性を支えるために働き続けるのである。」(55)
似非能動性・偽りの能動性・偽りの行動=能動に参加しなければならないという強迫観念、しかし何かを変えるわけではない、なにも変わっていない(大文字の他者=神は不変)

☆ 後半(55-73)
刑事コロンボ
精神分析家と患者の関係
・信じていると想定される主体(58)
「この信じていると想定される主体こそが象徴的秩序の本質的特徴である。」(58)
例)迷信、サンタ、信仰
「信仰がちゃんと機能するためには、素直に信じている主体が存在する必要はまったくないということだ。その主体の存在を仮定するだけでいい、その存在を信じるだけでいいのだ。それはわれわれの現実の一部ではない、神話的な創造者という形であってもいいし、人格を保たない役者であってもいいし、不特定の代理人でもいいのだ。」(59)
→ポスト・イデオロギー的時代(シニシズム、誰も信じていない共産主義の理想)

・象徴的秩序の非心理的な性質
「私は自分の内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。」(61)
「私が自分の選んだ仮面(偽りの人格)を通じて演じる感情は、どういうわけか、自分自身の内部で感じていると思っている感情よりもずっとリアルだということである。」(62)

・象徴的去勢のシニフィアンはファロス
「私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを想定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう象徴的去勢であり、そのシニフィアンはファロスである。」(64)
「去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威をあたえてくれる象徴的記号との落差のことである。」(65)
「この落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。」(65)

・人間の欲望は他者の欲望である(67) ラカンのもう一つの公式
正義⇔羨望

禁欲主義⇔快楽主義(現代の逆説)

例)カフェイン抜きのコーヒー・アルコールの入っていないビール・セックス抜きのセックス・戦争抜きの戦争・政治抜きの政治・他者性なき他者経験

・「私が欲するものから私を守って」(71)

*第4章 <現実界>をめぐる厄介な問題 「エイリアンを観るラカン

☆ たぶんこの章の目的=現実界が複雑なカテゴリーであることを紹介しつつ、その謎を解き明かすこと

☆ 重要概念
・ラメラ
対象a
・三つの現実界
現実界は物自体ではない

・3つの<現実界
ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化をすり抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。」(115)
「前半はラメラの現実界、つまり恐ろしい無定形の<物>としての現実界、後半は科学的現実、つまり自然の自動的で意味のない機能をあらわす公式の現実界」(116)
「これら二つの<現実界>に、第三の、謎に満ちた「私はなんだか知らない」の<現実界>を付け加えなければならない。」(117)→対象a
現実界はカントの物自体ではない

1 <物>としての現実界
ラメラ=もっとも想像的な次元における<現実界>をあらわしている
ラメラ=スコットのエイリアン
ラメラの<現実界>は<現実界>の科学的側面と対立
ラメラは去勢=共通分母なきところ世界、象徴的規制の下に参入したときに失うものに形を与える
想像的次元ぎりぎりのところにある現実界
実体を伴う<物>としての現実界(127)
ラカンはこれを反転する

2 公式の現実界
象徴的次元における現実界
化学記号
科学の標的である「真の<現実界>」(114)
?全面的に脱実体化されている、象徴界の裂け目としての<現実界>??(126)

3 謎に満ちた現実界
対象a 欲望の対象=原因
「ボディー・スナッチャー」のエイリアン

対象a
普通のものを崇高な何かにかえる
とても気になるちょっとした細部
欲望の原因であり欲望の対象ではない
欲望の原因は、対象の中にある何らかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する

・欲望の対象=原因
ななめからしか見えない(ジジェク『斜めから見る』)
正面からは見えない
どうしてそれをほしいのかが事後的に斜めから観ることで明らかになる

・もっともラディカルな<現実界
ラカンにとってもっともラディカルな<現実界>は全面的に脱実体化されているということである。それは象徴的ネットワークに捕まることに抵抗する外的な物ではなく、象徴的ネットワークそのものの内部にある割れ目である。」(126)→いろいろな現実界があるなかで「もっとも」ラディカル、という意味であるのか? だとしたら1から3のうちのどれか? 2か?

現実界>をヴェールに包まれた怪物のような<物>として考えるな(疑似餌)
実体をともなう<物>としての<現実界>に関してラカンが行った反転(→つまり、現実界を脱実体化したということ??)

空間に物がある→空間がゆがむ
ゆがんでいる空間→物がある(反転)

物がある→それが歪めるのが(手のところにあるのが)現実界
現実界がある→物がゆがみとして生じる

「狼男」のトラウマ 最初はゆがみをゆがみとして認識することができない のちにトラウマとして蘇生された
アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。」(129)

現実界まとめ
3つある<現実界>は現実界の異なる側面
外部にある手の届かない<物>ではない
ラカン現実界を全面的に脱実体化する
象徴界ネットワークそのものの中の裂け目
<物>を伴う場合、それは現実界のゆがみ

*第6章 「神は死んだが、死んだことをしらない」 ボボークと遊ぶラカン

☆ 重要概念
・「もし神が存在しなければ、そのときはすべてが禁止される」⇔「もし神が存在すれば、そのときはすべてが許される」
・「神は無意識である」
ドストエフスキー(を解釈するバフチン)批判
グノーシス主義サイバースペースモナドジー

☆ 前半(神のある/なしと自由/禁止)

・自由と禁止の逆説
「抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止をあらたに生む。」(160)
古風で権威主義的な父親と非権威主義的でポストモダンな父親、それぞれが発する息子への禁止命令
やりたくないことをやらなければならないが、内的な自由、権威に反抗する力⇔要求を飲むのみならず、それを自発的、自分の意図に基づいたものとして行う(偽りの自由選択は猥褻な超自我の命令)

・タネであると信じる男
・商品のフェティシズムというマルクス主義理論
「もちろん私はそれ(わたしはタネではないこと)を知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか」
「もちろんわかっています(商品は社会的諸関係の表現にすぎず、魔術的なところはまったくない)。でも、わたしが扱っている商品はそれをしらないようなんです」

マルクスのおさらい>
商品が帯びる不思議な力(魔術的な力)
社会的諸関係が表現されたもの
モノが市場にでることで商品となる
商品とはモノでありつつもモノ以上のものでもある
これはヒトとヒトとの関係と類似している
マルクスの偉いところ>
商品の物神崇拝(形而上学)を我々の認識のありようではなく、われわれの社会的現実そのものの中に位置づけた

公に信じるふり(信じなければならないという抑圧的命令)===公の確信を猥褻に揶揄していた心の奥底
ブルジョワ的主体
↑↓
懐疑的、快楽主義的、リラックスした自己===確信の厳しい禁止
マルクス主義

??実はいまいちマルクス主義およびフェティシズムの例の意義がわかっていない

ドストエフスキー「ボボーク」
バフチンの解釈 神と霊魂の不滅がなければすべてが許される→ジジェクドストエフスキーの誤り」
アル中患者の幻聴・死者(肉体が滅びるまで)たちの供宴
自分たちが現世の諸条件から完全に自由であることを知って、生きていたときのことを話して楽しもうとする

ドストエフスキーが描いている場面が神なき世界ではないことを忘れてはならない。話す死体たちは(生物学的な)死の後の生を生きている。このこと自体が神の存在の証である。そこには神がいて、死後も彼らを生かしている。だからこそ彼らはなんでもいえるのだ。」(169)

語れなかったことを何でも語ろうというのは、自由な気持ちではなく、超自我による猥褻な命令である
自分たちの行動に没頭しなければならない

ドストエフスキーが描いているのは神なき世界ではない
グノーシス主義的幻想である
↓邪悪で猥褻な「神」についての世界

グノーシス主義
サイバースペースイデオロギー
モナドジー

真理の外在性を拒否する姿勢
真理は外的な外傷的遭遇であるというユダヤキリスト教とは異なる
自己の再発見
ライプニッツモナド=外的現実に向かって直接開かれた窓はないが、それ自体は全宇宙の鏡像
サイバースペースには我々を悩ますものがいない

☆ 残り(↓全体の中で、どうしてハラスメントについて論じているのかが、よくわからない。グノーシス主義的世界での具体例であることはわかるのだが。神は死んだ、ということは見かけ以上に大変で、ドストエフスキーや現代の世界では、神は死んだという宣言文は、どうしてもグノーシス主義的になってしまう、ということだろうか??? となると現代はグノーシス主義的世界ということになる。これが、ポストモダン的父親が発する禁止の命令を受けた子供の、強制された自由となにがどう関連してくるのか???)

・嫌がらせ(ハラスメント)
欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難
「他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際に他者でないかぎり、他者はオーケーである。」(173)
寛容(自由)=その対立物(禁止)
例)フェミニストタリバン女性・禁煙・セックスのないセックス、脂のない肉・(カフェイン抜きのコーヒー)・子供たちへの禁止

・現代の快楽は命令である
・?現代の快楽はモナドサイバースペース的である?