ロラン・バルト『ロラン・バルト映画論集』(ちくま学芸文庫)

レジュメ作成:海老原豊

主に最初の3つの論考について考えたい。

1. 第三の意味

映画の3つの意味伝達のレヴェル
(1) 情報伝達のレヴェル コミュニケーションのレヴェル
(2) 象徴的(サンボリック)なレヴェル (全体として)意味作用のレヴェル
(3) 第三の意味 
 
・ この第三の意味を考える
「これら二つの顔には、なにか、それも心理、逸話、職務を超えた、要するに意味を超えた何かがあるが、しかしそれは人間のどんな肉体もが示す存在の頑固さに帰着するものでもない。コミュニケーションと意味作用というはじめ二つのレヴェルとは対立するこの第三のレヴェルは、意味形成性(シニフィアンス)のレヴェルである。」(15)

・ 鈍い意味の例
写真5(23)
写真7(25)
写真9 束ねた髪(27)など

「くりかえしておこう。〈鈍い意味〉は言語の中にはない(シンボルのなかにさえない)。〈鈍い意味〉を取り除いてみれば、そこにはメッセージと意味作用が残り、循環し、通過する。またそれがなくても、やはり私は語ったり、読んだりすることができる。だが、〈鈍い意味〉はパロルの中にあるというわけでもない。」(32)

サンボリック 自然な意味 
 第三の意味 鈍い意味
「〈鈍い意味〉は構造的に位置づけられているわけではなく、意味論が記者はその客観的な実在を認めるわけではない。」(34)
「〈鈍い意味〉は〈意味されるもの〉のない、〈意味するもの〉である。」(34)
「〈鈍い意味〉を叙述することができないのは、それが〈自然な意味〉とは反対に、何もコピーしないからである。何も再現していないものを、どのようにして叙述するというのか? 言葉の絵画的な描写は、ここでは不可能なのである。」(35)
「〈鈍い意味〉が(分節化された)言語活動の外にあるが、しかし(あなたと私の)対話の内側にあることを意味している。」(35)

 〈鈍い意味〉が反=物語(レシ)であることは明らか
 変化も発展もない主題である〈鈍い意味〉は現れたり消えたりしながらのみ、動くことができる

「映画的なもの」(41)とは何か?
映画の中にあって描写することのできないもの、表現されない表現

・ バルトは何を映画から見出そうとしているのか?
「映画的なもの」なのだろうが、それはいったい何なのだろうか? 言語的分節化の外にあるって何?

・ フォトグラム…?
映画を構成する写真 写真の中にあり、映画の中では消えてしまうもの
「映画的なものは動きの中にはなく、はっきりと分節されない第三の意味のなか、すなわち単なる写真も具象的な絵画も、物語的な地平や、前に述べた布置の可能性をかいているために引き受けることのできないような、そういった第三の意味の中にあるとすれば、そのとき一般に映画の本質とされている動きは活気、流動、可動性、生命、再現性などでは全然なく、ただ置き換え可能な展開の骨組みにすぎないのである。」(44)


2. 映画における意味作用の問題

メッセージの送信者 映画の作者
メッセージの受信者 大衆(知的エリートではない!)

I 意味するもの(シニフィアン) 舞台装置、服装、風景、音楽、身振り
 I-1意味するものの不均質性 異なる二つの感覚に訴えかける
 I-2 意味するものの複数機能性 多義(意味されるものの複数)と類義(意味するものの複数)
  映画では多義性よりも類犠牲
  多義性を可能にするのはシンボルコード(東洋の演劇)←→類似性=アナロジーを基本とする芸術(西洋?の映画)
 I-3 意味するものの結合関係性 シンタックス 要素の組み合わせで意味を生み出す
II 意味されるもの(シニフィエ) 概念、思想
 「映画は意味されるものによってのみ作られるものではないことは明瞭である。映画の本質的名稲生は、認識の次元にはない。映画における意味されるものは、付随的、断続的で、しばしばマージナル(副次的)な要素でしかない。映画の意味されるものについて、あえて次のような大胆な定義が引き出せるかもしれない。映画の外にあるものすべてと、映画の中で現実化する必要のあるものすべてが、意味されるものである。」(64)
 「意味作用は映画に内在するものではない。それは映画に外在するものなのだ。それゆえ、意味作用とは、あるシークエンスの中心に位置するものでは決してなく、ただマージナルなところに位置するだけなのである。」(65)

 映画記号の特殊で歴史的な性格(67)
 意味するものと意味されるものは類似的(アナロジー
  恣意的ではなく動機付けられている
  意味するものと意味されるものの間に極めてわずかな距離しか持たない
  シンボルではなくアナロジー
  どのようなコードにも依存していない
  観客(=大衆)を先天的に教養を持たないものとして考えている
  意味されるものの完全なイミテーションを提示しようとしている
  映画監督は彼が凡庸な作品を制作するのと容認した場合にのみ、レトリックに頼ることができる(68)
  現代芸術(映画)において、レトリックは信用されず、他の芸術(中国の演劇)では約束事が尊重される

??「われわれの国では、泣いているのを表すには、泣かなくてはならない。われわれの記号学の方法は、自由と自然さの外観のもとに、真の同語反復的な拘束、それもその内部では創意が義務でもあり、同時に制限でもあるような拘束を創作者のために作り上げることである。それでもやはり、慣例を拒否[→本当の自然さ]することは、自然への厳格な重視をもたらすだろう。わが観客の記号学のもつパラドックスとは、以上のようなものである。だが、抽象を不可能とする、普段の新語の使用が強いられるだろう。」(68)
 拘束(アナロジー的なイミテーション)であり自然であるというパラドックスが映画記号学を取り巻いている

3. 記号のもつ《ショッキングな単位》

・ 「ショッキングな単位」とは何か?
記号学の方法論 最小単位の抽出
 映画の通時性←→分析のシステム、安定性
 ?観客の経験←→分析の対象化

「映画において、意味作用の現場、形式、効果とはどんなものか? さらに、より正確に言うとすれば、映画にあってはすべてが意味をもつのか、あるいは反対に、意味するものの諸要素は不連続なものなのか? 映画の意味するものをそれらの意味されるのもに結びつける、関係の性質はどんなものか?」(74)
「意味するものの単位」(75) 

 ソシュール言語学を超えた意味論の例としてパントマイムを出している
 パントマイムとは比較的単純な記号的なシステムである
 身振りをその意味されるものに結びつける関係とは、伝統的なレトリックの中で、コード化され、理解されている
 映画は全ての西洋芸術と同じく、徹底した類似の関係によっている(自然のままの芸術への神話)
 ?「言ってみれば、映画はロゴス(言葉)ではあるが、言語活動ではない。われわれの分析が位置づけられねばならぬ認識論上の限界とはそのようなものである。」(76)

 シークエンス、単位、常識的な境目
 人間関係の戦略的な位置、映画の構造は登場人物の周りに組織される
「映画の意味されるものは、映画とは別の言語と言う意味論的なシステムの外部で自らを表出することはできない」(79)

「心的外傷(トラウマ)」(80)って何??

 意味されるものが確定すると、意味するもの(ショッキングな単位)を正確に見つけ出すことができる
方法1 態度、身振り、行動を切り離し、再構成する
方法2 細かい部分を変える(視線の長さ)

支え(視線)+持続(長い/短い)(85)
「言葉は意味そのものであり支えにはなれない」(87)


4. その他

ロラン・バルトとはどういう批評家か?

・ この評論がどのような歴史的文脈において登場したのだろうか?
映画について論じることの意義(特に、アカデミズムの文脈における)
 大衆という言葉の使い方 アナロジーとレトリックという対立軸

・ 映画を論じる言葉は文学を論じる言葉とは異なるのか(批評とは何か)

・ バルトの映画論を実際に、自分の批評の中で使うとしたらどのように援用することができるか