SF/評論研究会 2009 3/1 笠井潔『機械仕掛けの夢』レジュメ

                                   藤田直哉

1、 この時期の笠井思想について

 この『機械仕掛けの夢』はSF評論でありながら、私的な個人史が大きく挿入されている。それは大雑把に言って、マルクス主義ヘーゲル主義者であった過去の自分から、連合赤軍事件などを経て、「転向」していく過程が書かれている。
 「近代における物語の発生史」を語ると言う目的を持って書かれたこの本は、「観念の発展史」という形で『テロルの現象学』に展開されたのだと語られている。(筑摩版あとがき)では、この80年代前半の笠井思想とは一体いかなるものなのか。『機械仕掛けの夢』にもそれは顕著に出ているが、『テロルの現象学』を大雑把かつ暴力的にまとめてみようかと思う。
 『テロルの現象学』は四章構成である。自己観念、共同観念、集合観念、党派観念の発生史が述べられている。革命という輝かしいものが、何故連合赤軍のような事態に至ったのかについてが通底する問いとしてある。基本的にはこのような流れだ。人は世界を所有しようとして所有できないルサンチマンと疎外感を解消するために、受苦的な現実を「観念」の中で解消しようとする。かくして自己観念が発生する。それは「外部」を想定しない、肉体憎悪や民衆憎悪に繋がるものである。さらに、「民衆」や「肉体」という外部すら観念と化してしまうものである。それを解消するのは「集合観念」における、群集の励起の、霊的でバタイユ的な「体験としての神」である。この考え方はほぼ、『機械仕掛けの夢』と共通している。
 ここで笠井が述べる「観念」とは、ほぼ収容所国家化したマルクス主義と重ね合わせて考えられている。「産業主義、国家主義弁証法による知の全体主義」が、「観念」によって身体や民衆憎悪に陥っていく過程が書かれ、それを乗り越えるのは霊的な「体験としての神」を顕現させる集合観念である。笠井にとって、近代とはマルクス主義的なものに帰結するものと捉えられており、それと対抗するのは「霊的な力」である。そのために、『機械仕掛けの夢』では(笠井の考える)「近代的なもの」と「霊的な力」について、SFというジャンルを素材にして思考されている。


2、『機械仕掛けの夢』 見取り図
 序説から、「聖なるものの探求」「神話」「群集」などのキーワードが出てきている。脱魔術化した近代(労働)と、神話的な、聖なるものの侵入としての「探偵小説」「SF」「幻想小説」という見取り図が語られる。俗界から霊界へ至るのが〈アール技術〉であり、近代におけるその後継者が〈アール芸術〉だと語られる。
『SFとは何か』によると、笠井はSFを、「修辞としてのSF」と「主題としてのSF」と捉えている。「修辞としてのSF」は、語り方を疑似科学的に説得力を持たせることであり、「主題としてのSF」とは理性・科学と言う主題である。SFとは、「機械」に象徴される近代科学を「仕掛け」として活用する、近代人の「夢」のある独自な領域であると笠井は言う。そしてSFは近代科学を内在的に自己弁護するのでも外在的に非難するでもない細い道にあるのだと言う。
 以下、ヴォークト、クラーク、小松左京、ルグィンなどを、近代=観念=「ひからびたもの」と、その世界における霊的なものを求める心性を中心にして考察がなされる。それは「外的」な科学テクノロジーから、社会科学・人間科学に主題を移していったSFの、その主題が人間の無意識や神話的なものを通じて〈より深い私〉を探求する〈秘教〉として発達していったことを追う。

3、『機械仕掛けの夢』細部
 全体にわたって興味深い箇所や議論は多いのだが、長大なために、いくつかの部分を抜き出して引用することにする。

「(ハイファンタジーの系譜は)現実の幻想性ではなく、逆に幻想の現実性に作品世界の根拠を見出そうとする」(p54)
「人々は、科学技術の無限発展による人類の進歩と幸福の増大というような近代神話を、もうあまり信じないようになってきた」(p59)
「科学が二重に存在している」(p74)数学・物理学と生物学・進化論、自然科学と社会科学、近代科学と人文学
「レトリックを「うまく」使おうとする職人的感覚が、科学にたいする距離をおいた態度が、いわば「他人の関係」の自覚がSFをSFたらしめている」(p82)
「むしろ、小松左京にとっての真の問題は、近代精神と日本的伝統との不可避的な対立と相克をどう解きうるか、という点にあったというべきであろう」(p155)
「〈進歩〉ではなく〈進化〉」(p162)
「人間存在は事実性と超越性とに引き裂かれているが、同時に個体性と類体性とにも分裂している」(p182)
「今日見られるのは、一切のレアリテと切断された諸現象の数学化による知の形式的首尾一貫性の追求であるか、または知の技術化による悪無限的な功利的有用性の追求であるか、あるいは両者の癒着した姿であるか、これらのいずれかであるしかない」(p195)
「私が全体を獲得するのではなく、全体が私を獲得するのだ」(p260)
「なんらかの麻薬が生理的自動性において人に超越体験を保証するわけではない。問題はあくまでも技術なのである」(p276)
「神話は生の意味そのもの」(p298)
「この二項対立を前提にしたとき、たとえ従属的な第二項のサイドに立ち、支配的な第一項を批判するような身振りを演じようとも、それはついに自己循環的な内部の意識であるに過ぎない。
 内部的な自閉からは、しばしば倫理主義的な自己強迫の意識が生じる。そこから観念的力の沼地までは、ほんの一歩に過ぎないのだ」(p381)
「意味としての言葉は透明だが、半面、言葉には意味から逸脱していく混濁した物質性=肉体性があるのだともいえる」(p392)