野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)

レジュメ作成:海老原豊

柳田国男=エリオット(70)

・ 野家のエリオット解釈は果たして妥当なものであるのか?
柳田とエリオットを並列に論じることへの違和感(あるいは、柳田もエリオットも近代帝国主義的主体であったともいえる)

音声言語:体感 直接的 現在的?
口承言語:通時性(歴史)と共時性(現前)
文字言語:視覚 歴史的 過去・想起的?
単なる二項対立を超えたところに「口承言語」をおく
歴史とは何だろうか? ある種の排除が働いている 自然化されてしまったもの
イデオロギー批判が必要なのではないか?

・ 〈小説〉への批判としての召喚される柳田的〈物語〉
〈小説〉 〈物語〉
密室 炉端、宴
独創性 反復、伝聞
起源=作者 話者

〈小説〉とは「個人」が個別に分割された「空間」(フーコー)で読む しかし、同じような読者を想像することができる(想像の共同体) つまり近代的主体が形成されるのに〈小説〉は一役買っている

・ エリオット「伝統と個人の才能」
詩を詩人から分離すること
「個性」ではない
芸術の情緒は非個性的である 〈伝統〉に宿る
⇒新批評(一派)の誕生

・ 3分で分かる現代批評史
ロマン主義形式主義が交互に出現する
意味と形式、発話と辞書、個人と伝統、ロマン主義と古典主義、行為遂行的発話と事実確認的発話
(新)古典主義・ロマン主義モダニズム・フォルマリスム・記号論構造主義・読者反応理論・マルクス主義批評・脱構築・ジェダー批評・多文化主義 

エリオットは詩的・感情的な主観性を客観的に分析する方法を求めた
20世紀初頭にあった主体=主観の自律性の危機を回避するための一つの方法(主体の温存)
New Criticismは作者の意図を封印した 作者ではなく作品の自律的宇宙を対象にした
⇒伝統は本当に非歴史的なもの(=客観的)であるのか? イーグルトン『文学とは何か』






* 「小さな物語」

・ 口承言語によって伝えられてきた「小さな物語」(78)
〈小説〉、国民国家は「大きな物語
小さな物語としての歴史(154)

・ 歴史の二面性(語る/語られる)と脱歴史的存在としての動物
コジューヴ(ヘーゲル) 歴史を語ること/歴史に語られること
コジューヴ→ラカン東浩紀「小さな物語」 
東的「小さな物語」 それが複数あるうちの一つであることを認識している(小さなものであると相対化している)が、没入する態度は絶対的なものと何ら変わりはない 相対化すること/没入すること
東の動物化 脱歴史、脱人間、脱労働 

・ 「小さな物語」をうまく接続できないか?
・ 歴史性批判に繋ぐことができないか?


歴史修正主義との関係

過去・想起 ⇔ 現在・知覚
永遠に過去を知ることはできない
過去は想起として、つまり物語として理解される
過去の想起には正しいあり方があるわけではない
想起したされたものが想起されたものであり、過去
?想起の仕方を限定することはできる(薬物によって感じられた幸福感は、幸福感である)

歴史とは過去=死者の声、何の媒介もなしに伝わることはない
死者の声が知覚的現在へ届ける 入手可能な証拠や痕跡から
?入手可能な証拠の隠滅・変形、痕跡の抹消
?語りの「騙り」も肯定されるのか
⇒嘘の語りでも言語行為論的には肯定される(真偽に焦点がないので)

語りは整合性を問うべきだ
「現在入手可能な最良の証拠群と整合的に構成された物語を合理的なものとして受容すべきである」
?整合性など容易に捏造できる
?整合性は合理性? 数の論理?